私には弟がいた。
四つ歳の離れた弟は私にまるで似ず、雛人形の男雛のように色白いうつくしい顔立ちをしていた。さらに言えば、まだ幼いにも関わらず人を惹きつける、誘蛾灯のようなそんな雰囲気を纏っていた。
故に、親戚や近所の人々、同級生や先生たちはその見立てに惹かれ、それこそ灯に群がる蛾のごとくすり寄っていった。しかし、日が経つにつれ、一人二人と彼から遠ざかっていった。傍にいるにはあまりに焼けそうで、そして毒があることに気づいたのだ。彼らはそれに“幻滅”したのだ。それは私の母――則ち彼の母も違(たが)わず、いつか誘蛾灯に纏わる蛾は私だけとなった。
弟はどこか無機質な少年だった。人形のようにうつくしいばかりで表情に乏しく、そのオニキスのような瞳をいつもどこかへと投げ放っていた。少年らしい活気はなく、喋ることも笑うこともなく、ただ時折アリの巣を見つけてはその穴を指でほじくり返していた。それを誰かに見つけられては眉を顰められていたが、彼はそれを無視して黙々と作業に没頭していた。
母親はよく「あの子は何を考えているか分からない」と嘆いては私に縋りついた。と同時に「でもあの子は本当は優しい子なのよ」とうわ言のように呟いた。弟に似た黒々とした目には弟が確かに映ってはいたが、きっと母は彼を見ていなかったように思う。
しかしながら、私も弟が何を考えているのか分からなかった。弟はただアリの巣をいじるばかりだ。彼は何を見ているのだろう。何を思っているのだろう。ただ、アリの巣をいじる彼の細い指は、けしてその穴を埋めようとしているわけではないことだけは、私は知っていた。
海に行かない?
私が中学二年生で、弟が小学五年生のときの夏休み。宿題の気晴らしに付き添ってくれないかと、部屋の隅で植物のように佇んでいた彼に、お願いという形で提案をしたのだ。お願いとはいえ、あっさり蹴られるかと思いきや、意外にも彼は、声は出さなかったもののゆっくりと頷いてくれた。
バスと電車を乗り継いで一時間ほどのところにある海は、テトラポッドをぎゅうぎゅうと押し込んだ岩山の先に青緑に淀んでいる。お世辞にもきれいとは言い難く、岩やテトラポッドの隙間から大量のフナムシが這いずり回っていたが、まだ子どもの私たちにはここが限界だった。
それでも、フナムシやら、放られた花火のカスやらを踏まないように岩場の先を行くと、突き抜けるような青い空と眩いばかりの白い雲、そして限りを知らないまでに広がる海を見ることができるのだ。
目を閉じて、瞼の裏で太陽の眩さを感じながら大きく息を吸うと、頭からつま先まで海に満たされた気分になる。弟はというと、そんな私にも海にも見向きもせずに、背を丸々と屈めて、今度は貝の住む穴をほじくっていた。色のない彼と、この鮮やかな海と空はどこか不釣り合いに思えた。
さて、海に行こうと提案したものの、何をするわけでもなく、何をしたいわけでもなく、私たちはただ波に足を濡らしていた。弟は穴いじりに飽きたのか、うなじを手で抑えながら岩場の陰の方へと歩いて行った。しかし岩場の近くには行ったもののすぐに踵を返してきた。
「どこもかしこもフナムシだらけだ」
彼は唾を吐くように言うと、眉を顰めて整った唇を歪める。あーあ、きれいな顔が勿体ないと思いつつも、久々に無表情じゃない顔を見たなとも思い、なんだか嬉しくなった。
「暑いなら、これ貸してあげようか」
私が、母に買ってもらった白いカンカン帽のつばを持って見せると、今度は「ふざけんじゃねえ」と舌打ちをした。なんだかおかしくなってくすくす笑うと、彼は怪訝そうな目で私の顔をじいと見た。私はその視線を遮るように、サマーカーディガンを彼の頭にすっぽりと覆うようにかける。
「慎二、知ってる? ここの海に願いごとをすると、願いが叶うんだって」
どこかで聞いた話。お母さんからだったか、同級生だったか、誰かから聞いたそんなたわいのないうわさ話。
まるでおとぎ話だと思ったが、これで少しでも彼の本音が聞けたならばと、そんなおとぎ話に縋ってみたくなったのだ。ただ、鼻で嗤うことすらもせず、「こんなきたねえ海が?」とぽつりとした悪態を吐く可能性もあった。何となく彼の罵声を心待ちにしていたのだが、しかし、彼はうんともすんとも言わなかった。弟はただただぼおっと海を眺めていた。
何を考えているのだろう。
私はそんな彼の、うつくしく整った横顔をじいっと眺めていた。
海に行かないか。
私が大学一年生で、弟が中学三年生の夏休み。課題の気晴らしに付き合ってくれと、今度は弟から誘われた。お願い、というよりは半ば命令のようなそんなニュアンスだった。
「海ってあの海に? でもあそこきれいじゃないし、別の」
「あそこがいい」
彼はぴしゃりと私の言葉を断った。何か焦っているような、怒っているような声で。いつもの無表情の声ではなかった気がする。「はい」の返事を待つ弟に、私はただ頷いてみせた。あの日の弟のように。
空は晴れていた。相変わらず突き抜けるような青天井だったが、その日は遠くに雲が見えた。灰色の雲が暗く重く遠くの海を覆っていた。もしかしたら、じきに雨が降るかもしれない。
弟は、もう何の巣穴を弄ることもなく、ただしやはり植物のように立っていた。そんな弟の横顔を覗こうとすると、太陽の光を直に目に受けてしまい、刺すような強い痛みに襲われた。
弟は随分と背が伸びた。前は私の肩ほどに彼の頭が来ていたのに、今はその逆だ。おかげで横顔を覗くのも一苦労になった。
彼は背が伸びるにつれ、ますますうつくしくなった。幼いころはまだ女の子のような顔立ちだったが、顔立ちも体つきも男性らしさを帯びるようになった。しかしながら悪態は相変わらずで、誘蛾灯のように無自覚に人を誘っては、油の中に叩き落としていた。
そして、考えることは一層分からなくなった。
それもそのはず、一切喋らなくなったのだ。いや、喋るのをやめたと言うべきか。元来物静かな少年ではあったが、小学生の時はまだそれでも、少年らしさはどこかにあったのだと、今になって思う。今は人間らしさもない。表情もいよいよ失われていった。
母はいつしか息子を、お風呂場の排水溝につまる髪の毛を見るような目で見始めた。しかし、時々「あの子は優しい子よ、私は信じている」と、のたまっている。未だに。尤も彼はそんな母親を意にも介していないようだったが。
故に、彼から誘われたとき、そしてその声に表情が感じられたとき、背中に氷を滑り込まされたような思いをしたのだ。
私も彼も何を話すこともないので、ただ波の音と風の音と、遠くから聞こえる家族の笑い声だけがしばし聞こえていた。そして、先ほどよりも幾分かはじりじりとした暑さが和らいでいた。というのも、遠くの海にあった重たい雲がずんずんとこちらに近づいてきていて、太陽を飲み込まんとしていた。
そろそろ帰らなければ猛烈な雨に見舞われるだろう。まだここに来てそんなに時間は立ってはいないが、濡れたままバスの冷房を浴びれば風邪をひいてしまう。
帰ろう。私がそう彼に促そうとした、その時
「遠くへ行きたい」
それはしずかな声だった。波にかき消されそうにしずかで、低い声だった。それは私の知っている少年の声ではなく男性の声だった。一方で、遠くを見る弟の横顔は、まだあどけなかった。
「祥(さち)が言ったろ、僕が小学生んとき。願いが叶うって」
纏わりつく風が冷たさを帯びる。雨のにおいが強くなってきた。
恐らく、私が彼にあのうわさ話をしたことを忘れていたと思ったのだろう。彼はじれったそうに眉を顰める。私はというと、ようやく彼の言葉をゆっくり咀嚼して飲み込むことができた。けれど、
「、慎二」
「……もういい。することもねえから、帰る」
彼はそれだけを言うと、私に背を向けて、岩場の方へと歩いていった。呆然と立ち尽くす私を振り返ることもなく。ただ、待ってと私が後を追うと彼はしばし足を止めた。しかし、私が追いつきそうなのを見計らうと彼はまた歩き出す。随分と背の高くなった彼の足は速く、追いつきそうで、追いつかない。どうしようもなくて、私は叫んだ。乞うように、願うように。
「また、一緒に――」
しかし、それはやがて降り始めた雨によってかき消される。
弟は、頷かなかった。
それから一か月程あと、夏の暑さが薄れ、木々の色が落ち始めるころ、彼は母親を殴って、家を出た。
書店のアルバイトから帰ってきたのは、陽が町の向こうに沈み始めたころだった。母親はまるで赤子のように叫びながら、警察を呼ぶように訴えた。震える手で押さえる頬は真っ赤に腫れていた。そして、弟はそんな母親を見下ろすように立ち、右手の拳を固く握りしめていた。彼の拳もまた、真っ赤に腫れあがっていた。
出来の悪い銅像のように突っ立っている私に、とうとう母親は怒鳴った。私は流されるままに受話器を取った。が、その受話器は彼の手によって叩き戻された。ガラスが割れるような耳障りな音と、私と母親が息を飲む音。そして、一瞬の殺意にも似た緊張のみが場を支配する。しかし、それはつかの間。あとは弟の荒げた息と、周りに取り残された蝉の声のみが部屋に響いた。
そうして彼はもの言わぬまま、家を出ていった。今から暗闇に包まれるという時間に、恐らくはそんなに小遣いの入っていない財布だけを持って。
そして、彼は帰らなかった。
気が付けば私は二十七歳になっていた。
今もときどき、あの海に訪れる。
相変わらず、岩肌はフナムシと花火の残骸とよくわからない海藻に塗れている。
ここの海は、願い事をすれば叶えてくれる。
思えば私は一度もお願いをしたことはなかった。
弟が帰ってくるようにお願いすれば、彼は帰ってきてくれるのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎるが、私はそれを打ち消した。恐らくは願ったって弟は帰っては来ないだろうし、もし帰ってきたとしても――それは私の望まぬ形になるかもしれない。そんなことになるくらいならば、私の知らないところでもいい、生きていてほしい。
けれども、やはり。
誘蛾灯以外に寄る辺はないのだ。
そんなあさましき願いを祈る私をよそに、海は広く横たわり、波は絶え間なくさざなみ続ける。狂おしいほどに青い空から差す陽が、私のうなじをじりじりと焼いた。
<了>2016.11